『戦国の城を歩く』

『戦国の城を歩く』(千田嘉博筑摩書房/1200円)を読み終えました。城の調査を通じて、地域の歴史を解明する方法を提示した本です。求心的で階層的なものと横並びの並立関係のものとに大別できる城の構造が、築城主体である戦国大名の権カ構造の違いを表しているとの指摘は目からウロコであり、またそれが大名の出した文書のかたちの違いからも確認できるということには驚かされました。過去に埋もれた事実を、遺されたものから読み解いていく過程はひじょうに刺激的で、わくわくしながら読むことができました。
おすすめです。

以下、印象に残ったことを箇条書き。

縄張り調査では城のかたちをつかんでいきます。それは城を築いた人たちがどのような防御方法をあみ出していたのかという防御の組み立てを復原することでもあります。この過程はよく練られた推理小説を読み解いていく謎解きのようで、調査中は手に汗をにぎる思いです。そして城の守りの組み立てを正しく読み解けるか否かは、築城した人びとの意図を見抜けるか否かという、時間をこえた知恵比べでもあるのです。(P.18-19)


六角氏をはじめ判物を出していた大名たちが、せっせと宴を設けて家臣たちとの人間関係を構築していったのは、文芸活動が大好きで、深い教養をそなえたという文化史的な意味だけで解釈するのはあやまりで、人間関係を基礎に権カ編成をすすめていくためには、不可欠の政治性を秘めたからなのでした。それをふまえて、あらためて山城のかたちにもどれば、判物を出していた大名は、家臣との個人関係が大事で、城のかたちも大名だけが突出した権威というのをもつことはできなかったので、城のかたちもおのずから横並びになった、と解釈できます。
印判状の大名は、個人関係ではなく、非人格的な機構による組織政治をすすめていった大名でした。サインは本人でなければできませんが、印をおすことは本人でなくても、大名をささえた官僚たちが行えました。このことは、大名の権威を背景にした官僚的な政治機構を生み出すことにつながっていきました。そうした組織のあり方が、大名の居所であった本丸を中心にした階層的な城のかたちにあらわれたと解釈できます。
岐阜城で求心的な城のかたちを実現し、急速に印判状を出すようになっていった信長は、天下統一を見すえて、一五七六年(天正四)に居城を安土城へと移しました。この安土城と城下は、中世の城と城下から、近世の城と城下への転換点に位置しました。(P.155)


つまり偉い人はより城の中心の高い場所に屋敷をもち、偉くない人は城の端の低い場所に屋敷をもつということです。誰が偉いかがはっきり目で見えるようになっていたのです。この原則は江戸時代の城と城下へと受けつがれました。信長の安土城段階では、城郭部分はこの原則が貫徹しましたが、城下の部分は家臣と一般の商職人や、信長直属の商職人が混在していて、空間の序列は不徹底でした。
豊臣秀吉大坂城下や伏見城下では城のなかだけでなく、身分ごとの住み分けがしだいに城下の武家屋敷や商職人の居住地にまで貫徹していきました。それは一六○○年(慶長五)の関ケ原の戦い以降に改修がすすんだ各地の城下町でさらに鮮明になりました。こうして江戸時代の城下町では、城郭内部の求心・階層構造が、都市全体の求心・階層構造へと展開したのでした。求心・階層構造が城にとどまったか、城下にまでおよんだかは、織豊期城郭と江戸時代の城郭とを区分する大きな基準です。
織豊系城郭のかたちや技術は、さきにあげた秀吉の大坂城伏見城をはじめ、石垣山城・聚楽第肥前名護屋城などの一連の築城によって、全国の大名の居城に受けつがれていきました。それは近世封建制社会という新しい社会を生みだしていくというビジョンを、諸大名が共有するという政治体制のあり方が、城のかたちの共有と不可分の関係であったからです。それだからこそ、近世城郭は織豊系城郭の完成形として生みだされることになったのです。(P.159-160)


江戸時代の城下町は、戦国時代の城のかたちの到達点であり、大名を中心とした理想の都市プランだったといえるのです。それは大名を中心とした封建権力が、公権力として人びとに認められたことの表れでした。城が地域のシンボルになったのには、城下町のかたちに大きな理由があったのです。
そして城下町の求心・階層構造は、城下にくらす人びとの心に、殿様は偉いと思いこませる効果を発揮しました。何重もの堀が囲み、高い石垣が守り、数多くの武家屋敷がとりまいた城下町の中心、天守がそびえたはるか奥に殿様は住みました。城下町にくらせば、自然に殿様の偉さを感ぜずにはいられませんでした。いま市役所や県庁が城のそばにあることが多いのですが、織豊系城下町で完成した求心・階層構造の効果を受けついでいるといえるでしょう。(P.161)


『戦国の城を歩く』