『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―』

『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―』(烏賀陽弘道新潮新書/680円)を読み終えました。カラオケ好きとして、カラオケがどういう経緯を辿って現在の姿になったのか、押さえておきたいと思い読んでみたわけです。
驚いたのは、カラオケは1960年代末から70年代にかけて、日本各地で同時多発的に発生していたということ。同じような時期に立ち上がったにも関わらず、ある人は商業的成功を収め、しかしある人は商売としてのカラオケをあきらめることになったというその明暗に、ビジネスにおいて潮目を読むことの大切さ、難しさをあらためて感じました。
それにしても、なぜ日本でカラオケが発明されたのか、なぜ他国でこういった動きは起こらなかったのか、あらためて日本人と歌との関係を考えさせられることになりました。

『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―』


以下、印象に残ったことを箇条書き。

○七年、日本のCDなど「オーディオレコード」の生産額は三千三百三十三億円でした(日本レコード協会による)。それに対して同じ年、日本人はカラオケに倍以上にあたる七千四百三十一億円を支払っています。「CDを聴くのに使うカネ」と「歌をうたうのに使うカネ」の割合は一対二なのです。やはり日本人にとって「音楽」とは「聴くもの」ではなく断然「歌うもの」なのです。(P.9)
……生産額と「CDを聴くのに使うカネ」、カラオケへの支払いと「歌をうたうのに使うカネ」は必ずしもイコールではないだろうが、「歌う」ことにお金を多く払っていることに驚かされた。

それでは「カラオケ」という言葉には、どんな対象が入ってくるのか。
(1)ここまで述べたような、歌を抜いたバック演奏そのもの。
(2)それを録音したテープまたはディスク。つまりソフトウエア。
(3)(2)を再生し、それにマイクで集音した歌声をミキシングする機能をひとつの箱に収めた機械。つまりハードウエア。
(4)(3)にコインタイマーなどを取り付け、歌い手に課金できるようにした機械。
 (3)をスナックなどの店頭用に商用化したものだ。
(5)(3)または(4)に(2)を組み合わせたセット。つまりソフトとハードをセットにしたシステム。
(6)(5)を販売またはレンタルし、集金し、楽曲を定期的にアップデートしていく目的で組織された個人商店、企業などのビジネスモデル。
大ざっぱに数えても、「カラオケ」という言葉が指す内容には、これだけの種類がある。そしてまたそれぞれに「元祖」を自称する人たちが複数いるので「カラオケの元祖は二十人」というジョークが生まれるのである。
なお、本書では「カラオケ」を「アマチュアの歌い手が娯楽として歌をうたうための機械と音源、周辺機器」に絞ることにする。(P.20-21)

怒ったのは、井上のかつての同業者、「弾き語り」「流し」のミュージシャンたちである。前述の「神戸音楽人連盟」の総会で、井上はつるし上げを食った。
「こら井上! お前、わしらを失業させるつもりか!」
しかし井上は肝が据わっているうえに弁が立った。逆に会場を挑発した。
「私らみんな、毎回お客さんの歌に合わせて演奏変えてますやろ。言うてみたらオーダーメイドですがな。こんな音程も変えられんようなチンケな機械に負ける言わはるんですか」
大騒ぎだった会場がぐっと言葉に詰まった。しんとなった後、誰かが言った。
「おう、こんな機械に誰が負けるかい」「そやそや」「やったろやないか」
なぜか騒ぎはうやむやになってしまい、井上はまた8ジュークのセールスを再開。こうして、しばらく三宮ではカラオケと流しが共存していた。これも、井上が長年地元でミュージシャンとして働き、仲間に顔が利いたからできた「力業」である(これも根岸と明暗を分ける原因のひとつ)。
(P.43)
……論点のスライドがうまい。反論術として使えそう。

実は、当時のラジオ局関係者にとっては、日本人の「人前で歌うこと好き」は周知の事実だった。一九四六年一月十九日に日本放送協会(NHK)が始めたラジオ番組「のど自慢素人音楽会」が大人気だったからだ。
午後六時から一時間半、東京・内幸町のNHK放送会館から公開放送された第一回には九百人を超える応募があった。元々は新人歌手の公募から始まった番組企画だったが「多少歌える人ならどんどん放送に出したらどうか。下手は下手なりにかえって受けるのではないか」とオーディション風景そのものを放送する内容に変更したのだという。二年後の一九四八年に総決算ともいえる「のど自慢全国コンクール」が開かれたとき、その予選参加者は三万数千人に及んだという。(P.69)
……日本人の「人前で歌うこと好き」はいつから始まっているのだろう? 流行歌集である『梁塵秘抄』を、時の最高権力者(後白河法皇)が編んでいるくらいだから、かなり昔からのような気がするのだが。

昭和三十年代(一九五五〜六五年)、日本のサラリーマン社会に「三ゴ」ブームという流行があった。三つの「ゴ」とはゴルフ、囲碁と、もうひとつは「小唄」のこと。この三つのどれかに通じていないと、サラリーマン社会での上司や取引先との接待・交際に支障をきたす。それくらい流行していた。特に宴席で歌える小唄の持ち歌が数曲あることはサラリーマンにとって必須だった。(P.108)

当時の社長世代にとって、小唄は若いころの流行り歌だったんですね。社長や上司がやると、部下もつきあいで小唄をやらざるをえないでしょう? それで小唄が大ブームになったというわけです」(P.110)
……「三ゴ」というブームがあった事実に驚き。小唄が流行り歌だったことにも驚き。

「上層部が本気で撤退するつもりなら、チームを解散するとか、撤退事務の専門家を送り込むとか、もっと首を絞める方法はあったはずですよね。でも、撤退作業を俺にやらせるってんですから、やるわけないじゃないですか」
安友はそう言って笑う。(P.125)

「新しいことを何か始めるときには、すぐに思い通りには行きませんよ。いろいろ試行錯誤して努力するから解決法が見つかるわけです。ブラザーにはそれをよしとする企業文化がありました。それは励みになりました。今でも感謝しています」
後述するように、安友はもう一度ブラザー上層部には内緒で通信カラオケの実現に向けて布石を打っている。もし安友が上司の言うことにハイハイと従うだけの社員だったら、通信カラオケという巨大な変革は生まれなかっただろう。(P.126)

実は安友はある「根回し」を済ませていた。TAKERUに通信カラオケ処理用のCPUやメモリを積むと、予算を数億円オーバーしてしまうことが事前に分かっていた。そこで設備予算を担当する社内の部署を訪ねて聞いた。
「数億円オーバーしそうなんですが」
相手は言った。
「そんなに使ったらつるし上げられますよ」
「クビになりますかねえ」
「いや、クビにはならんでしょう」
安友は念を押した。
「クビにはならんのですね?」
「まあ全社的に見れば大丈夫な金額ですから」
じゃあ使っちゃおう。安友は腹をくくった。またしても会社に内緒で、通信カラオケに必要なインフラ整備を先に済ませてしまったのである。(P.130)

カラオケ曲のMIDIデータ化の作業だけで、かかったお金は六億円。うち四億円が人件費という人海戦術だった。(P.134)

が、驚いたのはライバルだけではなかった。ブラザー工業の上層部も「なんでウチの会社がこんなことできるんだ?」と仰天していた。(P.144)
……ブラザー安友氏の逸話。安友氏かっこよすぎ。

「日本人は自分への評価を気にする。つまり見栄えがいい、カッコいいものを作ろうとするんですね。そこを一生懸命やってくれるのがいい」
このカラオケの音源作りに見せる日本人の「芸の細かさ」は、なかなか他の国の人には真似できない、と業者は異口同音に言う。(P.178)
……日本人の職人気質が如実にわかるエピソード。

そこでよく出た質問のひとつが「日本人は、いつごろから、どのようにして宴会で歌うようになったのでしょうね?」です。(P.192-193)

邪馬台国」やその女性君主「卑弥呼」についての記録で有名な、中国の史書魏志倭人伝」(三世紀後半成立)にこんな記述があります。古代日本人の祭礼とウタの関係を記録した、極めて貴重な文書です。
「始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食はず、喪主哭泣し、他人就て歌舞飲酒す」
死者が出ると、周囲は酒を飲んで歌ったり舞ったりしていた、というのです。が、この文脈でいう「歌舞飲酒」は今日のような「娯楽」としての飲酒や音楽ではないでしょう。おそらく死者を弔うための宗教祭礼の性格が濃いのではないかと推測されます。(P.193)
……どのような歌を歌ったのか、興味深い。