『フットボールの文化史』

フットボールの文化史』(山本浩/ちくま新書/660円)を読み終えました。現代のフットボール(サッカーとラグビー)がどのように成立したのか、フットボールの母国であるイングランド(FAとRFUが創設された国)の歴史を紐解きながら解説した本です。中世に民衆の間で行なわれていたフットボール(本書では民俗フットボールと呼称)が、パブリックスクールを経て、サッカー、ラグビーへと分かれていった経緯が綴られています。フットボールの歴史を学べたこと自体おもしろかったのですが、乱暴な遊びだった民俗フットボールが競技として整備されていく過程において、サッカー派、ラグビー派、さまざまな人間の思惑が錯綜する様は政治ドラマとしても楽しめました。
ところで、民俗フットボールはなぜフットボールという名前だったんでしょう。《イングランドの民俗フットボールのなかには、名前はフットボールであっても、ボールを手で運ぶタイプのものがかなり存在していたのである。(P.43)》という記述を見ると、ボールを手で運ぶタイプのものも“フット”ボールと呼んでいるのがすごく不思議でした。

『フットボールの文化史』


以下、印象に残ったことを箇条書き。

たとえば、古代の中国では、皇帝の誕生日を祝う催しとして足球が行なわれたことが記録に残っているし、秦の時代には、サッカーのような球技が兵士の訓練を目的に行なわれていたようである(現代の中国語でも、サッカーは「足球」と呼ばれる)。(P.18)
……『レッドクリフ』で兵士たちがサッカーをやっているのを見て違和感を覚えたんだけど、秦の時代からあったっぽいんだね。

イングランドでは十四世紀初めからたびたびフットボール禁止令が出されているからである。(P.29)
……それだけ昔から大衆を熱狂させてきたってことか。

第三の共通点は、ボールを手で扱うことが一定の条件の下で認められていたということである。(P.88)
……学校によってまちまちだった、十九世紀初めのパブリック・スクールフットボールに存在した共通点。

キックされたボールをキャッチしたままゴールに向かって走っていくプレーや、転がっているボールを拾い上げてそのままゴールを目指して走っていくプレーは「ランニングイン」(running in)と呼ばれ、ルール違反であった。(P.103)
…… 著者・山本浩によると、十九世紀前半のラグビー・スクールを舞台にした小説『トム・ブラウンの学校生活』の記述が、作者であるトマス・ヒューズが在学していた頃のラグビー・スクールのフットボールのプレーを正しく反映しているのであれば、ラグビー・スクールでは一八三○年代にはランニングインが普通のプレーとして行なわれていたと考えざるをえないようです。

イートン・コレッジでは、「ボールは手によって摑んだり、運んだり、投げたり、打ったりすることはできない」ことになった。これによってイートン・コレッジのフットボールは、ランニングインが認められていたラグビー・スクールのフットボールとは決定的に異なるフットボール、現在のサッカーに近いフットボールになったのである。(P.110-111)

ケンブリッジ大学では、しだいにラグビー・スクール式のフットボールを支持する学生たちと、イートン・コレッジ式のフットボールを支持する学生たちとのあいだの対立が明瞭になってきた。とくに、イートン・コレッジ式のフットボールを支持する学生たちは、ラグビー・スクール式のフットボールの特徴となっていた、ボールを抱えてゴールを目指すランニングインを批判した。
ランニングインを認めるかどうかは、双方の決定的な相違点であった。イートン派の学生たちは、ラグビー・スクール式のフットボールでよく見られた長々と続くスクラムについても批判した。また、この頃にはイートン・コレッジ式フットボールでは相手のプレーヤーの脛を蹴りあげたり、足を蹴ってころばせたりするプレーは禁止されるようになっていたので、イートン派の学生たちはこの点に関しても、相変わらずハッキングを容認していたラグビー・スクール式フットボールを批判した。(P.133)
……サッカーとラグビーが分かれていく初期段階。

オールコックはつねづね次のように言っていたという。「十一人を超える人数のフットボールなどやりたくもない。私の見るところ、フットボールという競技は、人数が多くなればなるほど科学的な度合いは低くなり、逆に攻撃的で野蛮な力比べの度合いが高くなる」。(P.160)
……サッカー派の発言。